日曜日, 5月 30, 2010

シェイクスピア著「ハムレットQ1」を読んで。

ハムレットのテクストが3つあることを解説を読んで解った。Q1、Q2そしてFだという。中でもQ1が最も短いつまり短編だと。最近の研究成果ではこのQ1が、ハムレットの原形ではないかとされているそうだ。劇場での演目に対する台本は、演出家や役者あるいは劇場側の都合などにより加筆訂正がつきものだという。

P・G・ウッドハウス著「よしきた、ジーヴス」を読んで。

例によって、バーティーと従僕ジーヴスとの軽快なやりとりが、全編を貫き何故か読んでいて安心感を齎す。今回のよしきたは、物語が連続している。例によって、バーティーを回る友人が巻き起こす、恋愛沙汰に翻弄される。ジーヴスの機知に富んだ策が、バーティーを支える。ウッドハウスの人間を見る優しい目がそこにある。

土曜日, 5月 22, 2010

シェイクスピア著「ジュリアス・シーザー」を読んで。

ドストエフスキー著「罪と罰」を古典を読むの第二弾をシェイクスピアとした。古代ローマを舞台に戦争劇を書いた著者が描こうとしたテーマとは何であったかを読後考えてみると、戦争を題材の中心は民衆の民意の不確実性と迎合性そしてその渦中に生ける様々な人間模様その内面を鋭く抉り出す、つまり歴史とは民意の偶然とその渦中に生ける人間の精神の気まぐれさにあると。そう理解する。

冲方丁著「天地明察」を読んで。

普段は、アマゾンで殆ど書籍を購入するが、天気も良く近くの本屋に行き、本屋大賞の広告に釣られこの本を手に取った。全く時代小説の何かも不明であった。読み始めて江戸時代の会津藩の碁の指導指南役、渋川春海なる人物の一代記であることが判明した。碁方の春海が魅かれる算術・術理を求めるが、暦術に興味を魅かれ生涯研究のテーマとして己の春海の人生を全うする物語である。一心不乱の研究を続ける春海の人生に様々な苦難が待ち受ける。人生の邂逅と別離とそして恋とまさしく人生模様を映し出しているこの本を読み終え思わず篤いものが込上げてくる。この物語に登場する和算の大家とし知られる関孝和こそ、我が町群馬県は藤岡市の出身でる。西洋の算術に先駆け既に現在の行列式を考案したという数学の天才である。

金曜日, 5月 14, 2010

ドストエフスキー著「罪と罰」第3巻を読んで。

「罪と罰」を読むに当たって、作者の宗教観、愛について、人生について、運命についてを読み取ろうと意図したが、遥かに深く前述の全てについて書かれているようである。ラスコリーニコフは以前として精神的に追い詰められた状況下で彷徨いながら、刻一刻と自首へと傾斜し遂に警察の門をくぐることになった。この巻は罰の章である。選民思想、貧困、ロシア国内の状況下でのラスコリーニコフの決断は鬼畜金貸し婆の殺人であった。悔いることの無い決断はやがてソーニャとの邂逅によって、徐々に神へと近づいていくことになる。つまりソーニャこそが、神の化身ではないか。やがて判決が下り寛大な8年というシベリア流刑であった。流刑地まで追ってゆくソーニャは、即ラスコリーニコフは神を背に刑期を全うしようとする姿ではなかったか。何れにしても、こんなにも深く面白い小説こそ古典といわれる由縁であろうか。

月曜日, 5月 10, 2010

ドストエフスキー著「罪と罰」第2巻を読んで。

殺人から数日後のラスコリーニコフの生活が描写される。この巻で彼の殺人に至った精神的背景というか哲学が開かされる。またソーニャという娼婦との邂逅は、ラスコリーニコフの神への対峙を意味する。母ブリヘーリアと妹アブドーチャの再会、スヴィドリガイロフという精神的におかしな男とのペテルブルクでの遭遇、友人のラズミーヒンの友人の予審判事であるポリフィーリーとの接見。揺れ動くラスコリーニコフの精神的動揺が描写されている。

ドストエフスキー著「罪と罰」第1巻を読んで。

地方での元大学生ラスコリーニコフは、大都市ペテルスブルクで極貧生活を安アパートの五階で日々生活する中で、自虐的な精神状況下で、ふとしたことから殺人を決意する。母からの仕送りを全て居酒屋で使い果たすといった荒んだ毎日であった。何で殺人に至ったかの精神的経緯は判然としない。金貸し婆さんとその義理の妹二人を斧で滅多打ちにし、死に至らしめる。おりしも彼の妹のアブドーチャはルージンという歳の離れた弁護士と婚約しペテルスブルクに来るという。彼女ら二人が到着する前日ラスコリーニコフは殺人に及んだ。退廃的生活と活きる希望もなしに日々荒んだ生活を送る元大学生というように読み進むうちに太宰治の「人間失格」に思い当たる。罪を犯したラスコリーニコフはどのように生きようとするのか?第1巻は終わる。